法律を守れない法律家

30 4月

・権威は、伝統と力ではなく、誠実さと挑戦によって保たれる。

 

 権威は、その職責に忠実であろうという公正さと、社会環境に自らの道徳と勇気を持って答え続けることによってしか獲得できない。

 小沢一郎氏の政治資金規正法違反容疑による裁判は、無罪判決が下された。

 4月27日時点では、指定弁護士が控訴するのか(法律論としてできるのか)わからないが、無罪が確定したといってよいだろう。

 この裁判は、ただ一方的に自滅していった二つの権威と、そして、その自滅につき合わされた政治家という演目でしかなかったように思う。

 

・法律を守らない暴力集団だから、これからは暴力団と呼ぶべきか

 証拠の偽造、調書の捏造、そして、赤子を人質にとり自白の強要をした検察は、あきれ果てた存在だとしか言いようが無い。

 好意的にみれば「正義感が暴走してしまった。」ということになるのだろうが、法による正義を実現する集団が法という拠るべきものを失えば、社会にとり暴力を撒き散らすだけの迷惑な集団でしかない。

 従来は検察という組織に一定の権威があったために、調書が信用され、裁判でも重要視されていた。

 しかし、事実を自らの都合の良いように偽造・捏造する集団が提出した証拠は、どの程度の信用できるのだろうか。

 まず、被告の罪を問う前に、自らの証拠が偽造・捏造されていないことを法定で証明することが求められる。

 そして悲しいことに、司法試験の合格者に求めるべき内容ではないが、検察には、法の理念を理解し法律を守る誠実さを求めたい。

 

・裁判官は、法の番人ではなく、ただの官僚だ。

 検察が権力を暴走したのなら、それを法の精神に則って法の枠内に抑え込むの役割が制度上裁判所にはあるはずだ。

 それにも拘わらず先ほど廃止が決定された人事交流制度などが象徴しているように、検察と裁判所は二人三脚で司法権力を運営してきた。

 検察の暴走を止めるのではなく、お互いの権益の為に自らその暴走付き合っていたのだから、共犯者だ。

 裁判所は、国民の上に置かれた神様のように絶対的なものではなく、ましてや裁判官は神の代理ではない。

 国民の生活を法という秩序によって保つための機関であり、それを運営するのが国民である限りは、誤りも、そして利己的な判断も存在する。

 裁判所の判断は法的には絶対的かもしれないが、絶対的に正しい判断ではない。

 つまり、裁判所の判断は、道徳や正義の絶対的な指標にはなりえないということだ。

 利己的な官僚集団の意見を、崇め奉る必要は何もない。

 

 日本の裁判制度は、司法完了の無謬性を前提に成り立っている。

 無謬性に対して疑問が持たれ、そして信用を失うことになったら、それは国家が破綻することを意味する。

 司法官僚の自滅によって、一人の政治家が犠牲になったが、このままでは国民の多数を巻き込むことになりかねない。

  自発的に誠実さと挑戦することを取り戻して欲しいけれど、その可能性はあまりにも少ないのかもしれない。

 

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