マスコミは権力を批判しろ

27 4月

 小沢一郎氏の無罪判決を受けて、マスコミは飯の種ができたとばかりに「政治闘争を止めて前に進もう」と白々しい記事を書きたてている。

 マスコミがすべきは政治闘争に馳せ参じることではなく、権力を監視し、批判することだ。

 今回の裁判で、権力機関である検察の非合法ぶりがこれまでにないほど明らかになった。

 紙面を割いて批判すべきは、小沢一郎ではなく、検察であり裁判所でなければならない。

 

 検察が証拠を強制的に徴収できるのは、社会正義を実現するために国民から付託されたからであり、収集した証拠は国民の財産であって、検察の所有財産ではない。

 その証拠を裁判所と弁護人に開示しないことは、本来許されることではない。

 ましてやその証拠を改ざんすることは、公共物を毀損する行為であり、道路や市役所への破壊行為と等しい。

 証拠を改ざんした検事はすべて刑事罰を受けるべきであり、注意や減棒などで済ます問題ではない。

 

 取り調べの録音によって調書の捏造が明らかになった。

 調書が検事の作文でしかないということであり、作文は裁判の場での証拠にはなりえない。

 調書を証拠としたいのならば、検事は調書が作文ではないという証拠を提示する必要があり、作文ではないという証拠が提示されないのならば証拠採用は一切すべきではない。

 調書の捏造をした検事は、取り調べが録音されていると知っていたらこのような取り調べをしたかという質問に対して、「するわけがない」と答えた。

 取り調べとその結果であるはずの調書を創りだす検事と、それを無批判に受け入れてきた裁判所は、明らかに常識の欠落した集団だ。

 非常識集団の演劇で裁かれる国民は、悲劇でしかない。

 

 パチンコに熱中するあまり、車に置き去りにした赤子が死んだという事件は、置き去りにした親の人間性が大きく欠落しているとして報道された。

 検事は、有利な自白を得るために赤子のいる母親をだまして呼びつけて拘留し、子供のもとに戻りたければ言うとおりに供述しろとせまった。

 この母親は事件当時は事務所で働いておらず、重要性が全く内にもかかわらずだ。

 赤子の命を人質に取り脅迫した検事と、パチンコに熱中して車に赤子を置き去りにした親に違いがあるだろうか。

 

 裁判所は、検察のこうした取り調べを肯定し、助長してきた点で同罪だ。

 今回の裁判でも、録音していた取り調べの調書は証拠採用を否定したが、それ以外の録音をしていない調書は証拠採用している。

 小沢一郎を無罪としたけれども、「99%悪だけれども1%白いから無罪にしなければならないんだ」という検察とマスコミに配慮した内容だった。

 裁判所は法の秩序と正義を実現する法の番人ではない。

 ただの官僚だ。

 

 検察は、証拠の改ざん・捏造、恫喝による自白等、法律家とは思えないような行為をして、一人の人間を罪人にしようとした。

 これが政治家ではなく、権力基盤を持たない一国民であったのならば、(検事と結託している裁判所によって、)なすすべもなく罪人にされただろう。

 国家権力の腐敗と権力の濫用を批判しないで、マスコミは一体を批判しているのか。

 小沢一郎の道義的責任を追及する前に、法定の場で明らかになった国家権力の暴走を追求するべきだ。

 潔白でないならば責任をとれというならば、調書を自由作文のように創りだす検察とそれを無批判で受け入れる裁判所を、公正明瞭な裁判をできないのならばバッジを外して責任をとれと批判すべきだ。

 私は、検察と裁判所の権力の腐敗と犯罪行為に比べれば、小沢一郎氏がどうなろうがどうでも良い。

このエントリーを Google ブックマーク に追加
LinkedIn にシェア
Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です