邪馬台国はどこにあったのか?

29 12月

 邪馬台国がどこにあったのか?

 従来大和説と九州説の二つがあるが、異説として四国説がある。

 

 大和にあったと最初に主張したのは江戸時代前期の新井白石である。

 特に根拠があったわけではないようで、なんとくなく大和にあったらしいと主張したようだ。

 

 九州説を最初に唱えたのは江戸時代後期の国学者、本居宣長である。

 卑弥呼は日本の天皇と同じである。日本は神の国であり、卑弥呼が他国へへりくだるわけがない。だから、卑弥呼の名をかたった偽者が魏の国へへりくだったのである。誰かはわからないが、たぶん九州にいた豪族だろう。

 これが九州説の論拠であるが、まぁ、国学者のいうことなので科学的根拠は全く無い。

 

 2つの説の結論が出ない理由は、

 ・発掘調査が進んでおらず、推測の域をでないこと。

 ・九州説の主張が感情論・宗教論になり、科学的な話し合いができなくなってきたこと。

 が、あげられる。

 

 私は大和説をとるが、その理由は、

 ・当時(3世紀ごろ)、もっとも栄えた地域が大和であったこと。

 ・歴史の連続性が保たれていること(畿内を中心に歴史が今後展開されている)

 の2点からだ。

 

 それとは別に、四国説があるのだが、これはこれで面白い。

 ・古事記に出てくる地名などは瀬戸内や淡路など海に関連するものが多く、瀬戸内海沿岸は古代史上重要な地域であること。

 ・弥生時代の海洋交易圏が非常に広範囲であることは、北陸・九州地方の出土品から見てもあきらかであり、その点で、内陸部よりも沿岸部の方が適している。

 ・首都は最初四国の内陸部にあったが、その後政変により、畿内地方に移っていったと考えるのが、古事記、交易の二つから自然であると考えること。

 四国説はこれらの理由を根拠としている。

 実際に(卑弥呼の)邪馬台国が四国にあったかどうかは別問題にして、非常に有力な説であるといえる。

 

 歴史は科学である。

 学者や自発的な調査員には、発掘調査などにより、夢とロマンを切り開いてもらいたい。

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